無い: 盗撮
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無いとは?

[ 48] 自信が無い − 今週の生きるヒント
[引用サイト]  http://www.din.or.jp/~honda/hint-w3.htm

「自信が無い」については書いたことがありますが、どういう時に「自信が無い」と思ってしまうのかという観点から考え直してみようと思います。
「自信があるか?」と自問したら、多くの人は「自信無い」と思ってしまう場合のほうが多いのではないでしょうか。いつも「自信がある」と言える人は、そんなにはいないと思います。
「自信が無い」と不安な気もちになるよりも、「やるだけやるしかない」「ベストをつくせばいい」のように考えたほうがいいでしょう。
悪い結果を恐れている時には「その時はその時」と覚悟し、最後は「なるようになる」と考えてしまったほうが、少しは落ちついてやれるのではないでしょうか。
やると決まっていることは、自信がなくてもやるのです。どうせやるのなら、「自信無い」と下を向いてやるよりも、「うまくできたらいいな」と前向きにやったほうがいいのではないでしょうか。
「自信が無い」ということは「やってみなければわからない」ということではないでしょうか。うまくいかない可能性もあるけど、うまくいく可能性もあるということです。
自信があるかないかは、本人の性格的なもの(考え方の習性)によることのほうが多いような気がします。自信が無い人はたいていのことに自信が無いのではないでしょうか。
まずは、「やってみなければわからない」「うまくいく可能性もある」ことを重視することです。「やらなければ絶対に得られない」「虎穴に入らずんば虎児を得ず」です。「ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる」でもいいのではないでしょうか。
失敗を恐れているのなら、「いい経験をするつもりでやってみよう」と考えてみてはどうでしょうか。いい経験にできるかどうかは、自分の心の問題です。失敗から何か学べればいいし、単に新鮮な経験ができたということだけでもいいと思うのです。どこまでできたか、どれだけ頑張れたかを評価できれば自信にもつながると思います。そもそも「勇気を出してやった」自分をほめてもいいと思うのです。
たとえば、9回失敗して10回めに成功したとしたら、前の9回はいい経験になります。それがなければ10回めの成功はなかったとも言えます。そういう経験があれば、将来自信をもって生きていけるのではないでしょうか。
やろうかどうしようか、長い間迷っているよりも、やってみたほうが手っ取り早いこともあります。やってみれば自分の能力や適性や好みなどがわかったり、うまくいく可能性がどのくらいかわかったり、すぐに結果がでることもあります。「迷っているよりも、とにかくやってみよう」と考えたほうがいいこともあると思います。
と、前向きな考え方を書いてきましたが、「これはぜんぜん自信が無いからやめておこう」というのは正しい考え方だと思います。でも、「あれはちょっと自信が無いけどやってみたい」と、自分のやりたい気もちを大切にすることもあったほうがいいと思います。
とにかくやってみれば、何もしなければ得られない貴重なものを手に入れることができるのではないでしょうか。自信もその中の一つだと思うのです。
落ち込んだ時には否定的な考えをしがちです。その中でふと「自信が無い」と考えてしまうのもしかたがないでしょう。
でも、落ち込んだり気分が悪い時の自分の考えはそのまま信じないほうがいいと思います。「自信が無い」などと考えてしまうのは、「落ち込んでいるから」「悪い出来事があったから」ではないでしょうか。
そんな時には、「今は落ち込んでいるからだ」と気づき、「今はこのことを考えるのはよそう」「(一度寝てから)明日考えよう」などと考えられたら、と思います。
落ち込んだ時、過去の悪い出来事や今うまくいっていないことや自分の欠点などをつけ足して考えてしまうことがあります。それでは、どんどん落ち込むだけで、自信が無くなってしまうのも当然です。
落ち込んでしまった(と感じた)時には、「ちょっと落ち込んじゃったかな。今はこれ以上考えるのはやめよう」のように考えることをストップできたら、と思います。
「自信が無い」というのは不幸になる考え方だと考えます。その時の幸せになる考え方が他にあるはずだと考えます。たとえば、「やってみなければわからない」「べストを尽くすのみ」「どうしたらできるかを考えよう」「いい経験をするつもりでやってみよう」「やれる幸せを大切にしよう」などです。
不安になることもあります。そういう時には、「やるだけやるしかない。あとは、なるようになる」などと考えます。
私は好きなものは長続きするほうです。たとえば、バスケットは30年以上続けています。練習があればほとんど休むことはありませんでした。だから、それなりの自信はあります。と言っても、背は低い(167だ)し、運動能力があるほうでもありません。それに、今はもう歳ですし、膝と腰も悪化しています。でも歳のわりには体力があるし、若い人たちといっしょにそれなりのプレーができます。
私はこのHPをほぼ毎日更新し続けています。もう10年以上になります。一生懸命に考え、また自分が幸せになれる方法や考え方を心がけているつもりです。だから書いている内容や文章にそれなりの自信はありますが、そんなに自信があるわけではありません。まだまだ未熟だと思っています。
一生懸命に続けているということでそれなりの自信はもてても、絶対的な自信なんてもてそうもありません。私は自信満々になれるようなタイプではないようです。もちろん、慣れていないことややったことがないことには自信がありません。そういうことがいっぱいあるのです。
一所懸命にやれば、それなりにできるし、それなりにできないのだと思います。それでいいと思うのです。それに世の中のことは、運や巡り合わせのようなこともありますし。でも、「なるようになる」と思います。
自信が無くてもハオハオ、結果が悪くてもハオハオ、それなりに好好なら、好!好!です。(この考えがよくわかるという人は、幸せのHPマニアかな?)

 

[ 49] 中国に有りそうで無い物
[引用サイト]  http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/dd040803.htm

勝手に中国はこうだと思い込んで、実際に中国に行ってみたら実際は違うということが結構多い。元々が勝手な思い込みだから、予想とは違うのは当たり前と言われればそうなのだが。多いもの(例えば偽物)はすぐ目に付くが、無いものを無いと気が付くまでには、結構時間がかかる。
答えは、殆んど無いと言うのが正しい。有るには有るが、いい陶磁器が有るのは骨董屋に有るのである。しかし気の利いた皿や花瓶を買おうとして、デパートに行ってみると無い。食器売り場では、ほんとに貧弱な陶器しか並んでいない。瀬戸物屋らしき店も有るが、埃まみれなった、あまり模様も無い食器類があるだけである。
日本人は中国の歴史で、中国に景徳鎮があることを知っている人も多いから、中国には、良い陶磁器があると思い込んでいる人が多いかもしれない。確かに景徳鎮の磁器は、専門店に行けば売られている。しかし他の有名な陶磁器はあまり見たことがない。そして景徳鎮の磁器はデパートでは売っていないのである。中国のデパートにも高級インテリア売り場みたいなところがあるが、そこに並んでいるのは、韓国の皿であったり、東欧のガラス器であったり、却って日本の食器セットが並んでいたりする。
ちょっとした皿と書いたが、この"ちょっと"言う言葉を付けると、益々捜すのが難しくなる。"ちょっと"とは超高級品ではなく、旅行に行った時のお小遣い程度で買える程度の、気の利いた、と言う意味とすると、こう言ったものは殆ど手に入らない。景徳鎮の磁器は、超高級を誇る壺とか、人の背の高さ位もある大きい花瓶ならばある。
何と言っても日用雑器の類で素晴らしいのは、日本のものであって、もともと日本人は日用雑器の良い物に拘り過ぎるのかもしれない。こう言うものに日常的に接している日本人から見ると、中国の皿や花瓶は何とも愛想が無いというか、殺風景過ぎる。それでもホーローの食器よりはずっと良いのだけれど。繰り返すが、骨董屋になら高級な皿や壺がちゃんとある。
日本にはラーメン専用のどんぶりが有る。縁の模様は卍のごとき中華模様があるどんぶりである。上に書いた中国の陶器の事情も有り、中国にはラーメン専用のどんぶりは無いのである。中華紋様とは私が勝手につけて名前であるが、あの模様も中国で見たことがない。あの中華紋様はもしかしたら、日本人が作ったものかもしれないなんて考えた。何度も書いているが中国のラーメンは日本のラーメンほど重要な食べ物ではないのも理由かもしれない。
日本では住宅地などを散歩しているとピアノの練習の音をよく聞く。ならば中国では二胡の音が聞こえてくるかというと、今までに、町中で二胡の音を聞いたことはない。これは家の構造が違うと言うこともあるかと思うが、中国では日本のピアノほど二胡がありふれたものではないらしい。
公園などに行くと二胡のような音が時々聞えてくるが、二胡のようであっても二胡ではない楽器が多い。棹の長さが違っているものだったり、共鳴の胴の部分が違っていたりする。京劇などでキイキイ鳴っている音を聞くが、あれも二胡ではない。
中国では二胡の発表の場があまり無いように思う。北京でも二胡演奏会などは滅多に無い。稀にホテルや茶芸館などで、二胡を弾いているところがあるが、最近気が付いたのだが、そう言うところの演奏であまり楽しそうに弾いているのを見たことがない。
中国人による二胡の演奏会や音楽のCDの数は、中国より日本の方が圧倒的に多いと思う。特に古い楽器である二胡と新しい音楽のコラボレーションによるのCDなどは、中国に殆ど無い。だから二胡を聞きたいなら日本でとい言う事になる。
ところで、コラボレーションという言葉の使い方は、これでいいのだろうか。日本に居ない間に新しい言葉がどんどん増えて困る。
梅の花は北京辺りでは多くないのである。中国には梅の花が多いはずだと思っていのだが、何故か期待はずれだった。梅の花が多いと期待させる理由は、中国画の題材として梅の花がとても多いからである。画には白い梅も、赤い梅も描かれているが、実物はとなると極めて少ない。梅の花の写生の時、何処の梅を見て描くんだろうと思ってしまう。この話は北京から北のほうには梅が無いか、少ないと言っているだけで、江南地方には多いのかもしれない。北京で 植物園に行けば有るそうである。私も北京植物園に行ったことがあるが気がつかなかった。梅の花なんて我が家の庭にも有ったのだが、北京ではそんなにありふれたものではない。北京に多い春の花は、本当の桃ではない桃の類いの花が沢山咲く。こっちは日本より多いのではないだろうか。会社のある女の子の名前が"冬梅"だったので、梅を見たことがある? と聞いてみてたら、やはり無いとのことであった。
元々中庭を囲んで、四方に部屋を構えるのが四合院である。しかし今では、昔の貴族の大邸宅などは別として、大きい民家の四合院の中庭はなくなってしまった。これは北京の話しである。北京から100kも離れている川底下村に行けば、農村の四合院に中庭が残っていた。
北京の四合院は文化大革命の頃に、大混乱が起きて、中庭に勝手に人が入り込んできて、違法建築を建ててしまった。当時は憲法も機能しなかった時代だから、違法だとは言えないのかもしれないが、今の当局は違法と言っている。恐らく特別に保護された所を除いて、四合院の中庭は全滅なのではなかろうか。北京には胡同を回るツアーがあるが、そのツアーに参加すれば、違法建築の無い、空間の有る中庭を見せてもらえるのだろうか。大いに疑問である。
日本では、軒先には横樋があって、雨を集めるから、軒先から雨が直接地面に落ちないようになっている。これが常識である。しかし中国では軒先に横の雨樋が無い。軒先から雨がジャアジャア落ちる。ある時、雨がジャアジャア落ちているので、上を見上げたら、日本では常識的な樋が無いことに気がついた。しかし建物については、よくみると日本にあって中国無いものが沢山あるのである。まず玄関が無い、廊下が無い。表札も無い。傘立てが無い。もっとも傘が無いから傘立ての必要ない。傘が全く無いわけではないのだが、折り畳み傘が一人一個有る程度だから傘立ては必要ない。長い傘は殆んど無い。玄関が無いから靴脱ぎ場が無い。下駄箱が無い。勿論中国には下駄が無い訳で有るが、かといって靴入れがあるかと言うと有る所が少ない。あるところでは郵便受けさえも無い。押し入れ物入れがない。壁に絵などを掛けるところが無い、これはコンクリートだから釘も打てないからである。柱も無い。これもレンガ作り、またはコンクリート作りだからそうなるのである。同じ家でも結構違うものである。

 

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