| このページは 存在とはに関してが 2008年 04月 12日 17時18分53秒 にクロールしたキャッシュ情報です。 |
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存在とは?
[ 128] 存在と非存在 -OKWave
[引用サイト] http://okwave.jp/qa1877795.html
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大手日系出版社U.S. FRONTLINE NEWS, INC.とのパートナーサイト「教えて!アメリカ生活」がオープンしました あと400文字入力できます。 こちらのページでは2000文字まで入力できます。 カントの存在からして三つのカテゴリーに区別されていますし、ハイデッカーやスピノザと言った「実存」、「存在」にまっわる概念の氾濫が、逆に「存在」を理解の彼方に押し込めているような気がします。ベルクソンは常識に戻ることを強調しますが、哲学者は新しい概念を発見することが使命とするドゥルーズは、存在は差異と「差異そのもの」と。『無人島』なんか、さっぱり判らず、放り投げた記憶があります(笑。 おそらく、カントは世界を「言語」を通して説明し尽くす事を望んだのかもしれませんが、ところが、そもそも、言語は理解するためではなく、行動に無用な物を排除する為に生まれてきたのかもしれません。 カントの独我論と言語の不確実性を踏まえて、それでも理解しあおうとすることは、美しいのではないでしょうか。 この回答への補足私がお聞きしたいことは、例えばハイデガーなりスピノザなりが有と無どちらを優位に置いたかという説明ですよ。 それ以上何が問えますか? この回答へのお礼結局、私の質問は無を優位に置いた思想をご存知であればお聞きしたいということです。 どういう意味ですか? この回答へのお礼う〜ん、私には#19さんの自信ありのアドバイスが何を言っているのかサッパリ分かりません。もしお分かりであれば解説していただければ助かります。 我々が存在を認識するときには、認識主体と認識対象という、二者相対の関係が浮かびますが、このとき、認識対象は、事物であれ事象であれ、「何らかの存在」であって、存在そのものであるとは言い切れないところがあります。もちろん、なんらかの存在である以上、存在そのものであるところを含んではおるでしょうが、まったく純粋に、存在そのものであると言い切れないと思います。なぜなら、その、なんらかの存在である対象を、認識する主体の方もまた、認識する、「とある存在」ではないのかという疑問の余地があるからです。 存在ならざるところから、「あれが存在である」と、指・し・示・す・こ・と・が不可能である以上、非存在を語る以前に、我々は、存在が何であるかをそもそも分かっていないと言わざるを得ません。いえ、主体の側からでは、分かりようがないということを、分かっていないともいえます。 認識主体と、認識対象が、同一でもない限り(仮に、主体が主体そのものを認識しようと試みることにおいてでも)、存在そのものを知りうることは、ならないのではないでしょうか。そこが、この問いの難しいところであると思います。 この回答への補足少しはデカルトの純粋自我やカントの先験的統覚を学ばれた方がよいのではないでしょうか。 この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ) 問題は、「欲求していない」を非存在とすると、存在論ではなく認識論に成ってしまうのではないかと言う危惧ですね。ご質問者様も無前提で「存在と非存在」を並置していますから、間違いとまでは言えませんが、認識論の立場で存在に言及しても、結局対象の存在を言及するだけで、認識の主体の存在に対して述べる権利がないのではないかと、不安になりますね。 よく考えると、おかしな話です、私たちの常識は、「戦国時代」と言う過去が、現在われわれの住む場所とは違う空間を占めて何処かに存在しているような錯覚を持っているのではないかと言うことです。 確かに過去は存在していましたし、宇宙が扁平な楕円型も事実でしょうが、実際に丸い地球を見た人は多くは有りませんが、殆んどの人が、地球が丸いと信じているのは、存在論ではなく認識論が混入しているのではないだろうかと言う思いです。 この回答への補足事実の認識は、その概念枠組のなかでの「事実」であるということだと思います。自然科学の分野ではしばしば理論の転換といったことが起こりますね。 「非存在」ー凡人としては「存在に非ず」と素直に受け取るしかないのですが、そうだとするとこれは「欲求していない」という意味で非常に安定した状態と言えるような気がします。 無論、存在することを希求する人間にとっては「保存」することを優位と捉えたいところですが、「欲求を知る前の非存在」、あるいは「破壊の果ての非存在」こそが実はその「安定性」ゆえに優位ではないかと感じます。 暇があれば宜しくお願い申し上げます。 この回答へのお礼安定性ということであれは絶対無でも絶対有でも同じです。 お礼文で質問者様が仰られていた{論理学の「1、0」の世界の存在論的な意味や、東洋的な純粋無つまり無の優位といった}という文章の意味がよく飲み込めないんですが、できれば説明していただけませんか(回答側が何をしてるのか…)。それと、{存在と非存在を止揚しようとする思想}についてですが、(国語辞典で「止揚」を引いてやっと分かったんですが、)少し前、キリスト教の教会に行って、哲学めいた話をしていたので、たぶんそのときに貰ってしまったものでしょう。言われてみれば、確かに止揚していました。 #12です。間違えて「自身あり」にしてしまいました。実際は自信のかけらもありません。お詫びと訂正をいたします。 黒澤明監督の「影武者」はご覧になったことありますか? この場合も、「非存在」の存在感は、鬼気迫るものがありました。 前書きー私はシロウトです。質問者様の投稿文に沿う回答は、多分できかねると思います。でも素人は素人なりに頑張って考えました。できれば最後までお読み下さい。 ざっと、以下の質問者側と回答者側のやり取りを拝見しましたが、どうも、このレベルぐらいの話になると「言葉の繊細な概念の違い」が大きく影響するみたいですね。例えば「優位」という言葉も、私は成績と、運動会と、紅白歌合戦にしか使ったことがありません。「優位」とは事実のみの言葉なのか、そこに精神的なものが関係するのか、やはり人それぞれ違ってくると思います。成績や紅白歌合戦にココロがないわけがありません。でも、哲学上は「事実」だけなんでしょうね。そこで私の回答を申しますと、私は、存在と非存在が両立し、片方だけでの成立はあり得ないと思います。我々が仮に「存在する」方に入っているとすれば、「非存在」は我々には見ることも知ることもできません。なぜなら、「存在」(の中の世界)とは程度ですから。少し前に考えていたんですが、我々が「存在する」ことを「プラス」だとしたら、「非存在」とは「マイナス」か、「ゼロ」かという問題。私の結論は、「非存在」はゼロでもありマイナスでもある、同時にゼロでもマイナスでもないとすると「存在」はプラスではない。当然のことですが、そういう問題ではないということは分かるんですが、果たして「存在」の反対が「非存在」か、そこでの「反対」という概念そのものが「程度」か否か、それが分からなかったんです。でもここから察するに、「存在」「非存在」その中での世界は程度であり(「非存在」の 中の世界が程度なのかは私にはまだ分かりませんが)、その二つの関係は程度ではない。すなわち、世の中に絶対といえることがあるとすれば、それは「存在と非存在が両立していること」ではないでしょうか。いやはや、質問者様の投稿文の趣旨と、大分ズレてきたような…。長くなってすみませんでした。 ところで、あるものを別のもの、つまり言葉という曖昧なもので断定しようとすること自体に非常な困難がつきまとってきます。 対話するにもある程度の共通認識が必要とならざるを得ないということですが、唯一無二のパースペクティブなどは有りえないのでいかし方の無いところだと思います。 >世の中に絶対といえることがあるとすれば、それは「存在と非存在が両立していること」ではないでしょうか? 存在と非存在を止揚しようとする思想だと思います。ややこしく言うと絶対的な絶対者つまり普遍的絶対者の思想いうことになるかと思います。 「存在」というものについて皆様がどうお考えになっておられるのかお聞きしたいというのがこの質問の意義ですのでまたどんどんとご意見をお寄せいただければ幸いです。 読書の時間を作るため、早朝、一杯の苦いお茶を飲み、この「苦さ」は現象と言う言葉を付ける事により「空」と片付けて良いのかどうか、目の前の、読書台の赤い図柄の「赤さ」はその布の表面を覆うとともに、私の恐らく脳の中にも「赤さ」としてあるわけです。はるかに望む銀嶺の峰々の「白さ」はその峰にあるとともに、見ている、私の頭にも、そしてあなたの頭にも、有るのです。 言い換えれば、自分の主観を超越して、自分と他人の各々の主観を並列的に眺めるような「大客観」的な神の視点は放棄しています。此れが存在論になるのかな、またまた、外したかな(笑。 補足の方は、論理学の「在る」と存在論の存在の意味の相違などもしご存知であればお聞きしたかったと言うだけのことです。 ただ事実として在るというのであれば、それは現実存在つまり「存在者」ということであり、「存在そのもの」ではありません。 私はどっちが先に生まれた言葉なのかも、考えも知りませんし、考える時は、絶対こっちを基準にするというもしません。故に評価できないのです。 回答とは直接関係ないのですが、mineosanの質問が興味深く、あれこれ考えているうちに、妄想が浮かびましたので書かせて頂きたいと思います。 トマス・アクィナスは、「存在」は無限、かつ、無限定だから、「存在」=「神」であり、人間は「神」が作った「存在者」だから、有限、かつ、限定的なのだと考えていたようです。しかし、実際には、「神」は無限定どころか、「神とは○○だ」とか、「神とは△△だ」とか、やたらと限定を受けているように思います。そう考えると、「神」は「存在」ではなく、実は、偉大なる「非存在」ではないかと思えてきました。 あるものはある、あらぬものはあらぬ、正に神は非存在なぞ含まぬ絶対的存在ということになります。究極の不動の動者という。 神においては、存在は同時に本質であり本質が存在つまり存在そのものですから何ものにも規定されることはないということになります。 この映画では、非存在の可能性が、現実存在以上の存在感をもたらしていました。もし、非存在がその可能性をやめて現実化してしまったとすると、この映画の存在価値がなくなります。そういう意味で、非存在こそがこの映画の生命ですが、その非存在が、十分に存在感を持つためには、それと対立する現実存在あってこそですから、非存在と存在は対立しつつ昇華するといった感じです。 可能的経験に与えられうるという意味においては、まさしく未確認飛行物体と同じですね。確認されて現実存在となってしまっては未確認としての価値を失ってしまう。我々の知覚を統制するところに意義がある。 この回答への補足認識論的に言えば全て現象(phainomenon)として在るものは「在る」ということであり、実体は「在る」とも「無い」ともいえないということになるかと思います。 図と地は現象のみ存在するという主張であって、その現象は相互依存(故に無いは無い)によって存在するという空の思想とまったく同一であると思います。 論理的な肯定や存在命題の「〜がある」と存在論の存在との意味関係をお聞きしたいところです。 この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ) この回答へのお礼「実現不可能で無い」つまり現実存在としての存在は非存在に対立するものと考えますが、趣旨に合っていますでしょうか? ギリシャ哲学とか全然知りませんので、回答にもならない回答かもしれませんが、回答したいので回答します。 事実に優位とかつけるのは、人の価値観によるものでしょう。どんな鍛錬したところで、人は自分の価値観で物事を評価するのものです。 というわけで、何が存在して、何が存在しないのかによって自分がする評価は違いうので、存在と非存在だけで優位や劣位はありません。中間ではなくて、評価できないです。 ただ事実として在るというのであれば、それは現実存在つまり「存在者」ということであり、「存在そのもの」ではありません。 この回答への補足基本的なことですが言語表現に関しては、存在は有であり非存在は無ということです。論理的には、肯定と否定です。 この回答へのお礼私も存在が非存在に先立つと思うのですが、 両者は図と地の関係にあるのではないですか。黒白の同心円を描いた時には両者が同じもののようにも思えます。 どの存在と非存在の話しをしているか僕には判断しかねますが、もしあることないことそのものの話をしているなら、どちらも優位とは言えないと思います。存在の立場から考えれば非存在は「存在しない」が故に劣等と考えられます。非存在の立場から考えれば、存在は「存在してしまっている」が故に劣等と考えられます。したがってここに絶対的な優越を付けることはできません。 例えば、「言葉にして表現して」と言われる時非存在は存在に劣等しています。逆に「大事なことは目には見えないんだよ」と諭される時、今度は逆に存在は非存在に劣等しています。 ではどちらのほうが劣等する回数が多いか調べればいいと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、状況に応じて優劣するものですので、片方だけを優等だとして贔屓すればもう片方が嫉妬して警告を発します。例えば、「目に見えないことが大事」と言うことをあまりに重視しすぎれば、「言葉に出さなくてもわかってほしい」と言う甘えにそれはつながります。逆に「言葉に出して表現すべき」と言う考えをあまりに持ち出しすぎれば、「喋らない人間は居ないも同然」という独善者になりかねません。 それに人間は不完全な生き物なのでどちらが劣等する回数が多いかきちんと数える方法を完全に解明することは不可能でしょう。 この存在と非存在の戦いは古代から決着がついておらず、またおそらく未来永劫決着はつかないものです。これは直感的に言っている事ですから、もしかしたらひょっとして解決するかもしれないともいえませんが、まずありえないでしょう。 しかしそれは逆に言えば、われわれが可能なのは両方を大事にしてやると言うことがわかったということでもあります。われわれは生きている限りその存在と非存在のバランスを考えてやらなければいけないし、逆に言えばそれが任務でもあり、生きがいでもあると言うことです。 言葉にしないとわからないようなら、気分を変えて出してやる必要があります。逆にいつも気にしてない、言葉にしていない何かに一度注意を変更すべき時もあるでしょう。 これをさらに裏返していえば、優位とするのはどっちでもいいということでもあります。人間はどうしても完全なバランスをとることは不可能ですから、どちらか好きなほうを重視してもう片方をたまに見つめてやると言うことをするのが普通のあり方でしょうし、またそのほうが人間らしい(かっこいいと言える時もあるかもしれません)とも言えるでしょう。 いろいろおせっかいも焼きましたが、とりあえず質問に文字面だけ答えるなら「どちらともいえない」という非常にツマラン答えになります。しかし当たり前のことだけを言うのが哲学であるべきでしょうから、当然の答えともいえます。何よりも一番大事なのは存在と非存在と言う名前が書いてある箱を開いて、中身を調べてみることでしょう。 ちなみに私は非存在に最近こってますが。無いことというのはなかなか皆さん気づかないので、自分が気づくと得した気分になります。 (二値の形式論理学では二重否定つまり、否定の否定、は肯定となるので否定は肯定に優位であるともいえますが。) ただしそれは、存在を明確にするための契機になるものであり、やはり存在が優位と言うことを現すだろうと思います。 紙の表面と裏面は別のもののように見えますが、見る方向によって違って見えるだけであって、実態は同じであるように、存在と非存在も実態は同じものです。 OKWaveについて|利用規約|プライバシーポリシー|情報セキュリティポリシー|リンク・雑誌掲載等|広告掲載会社概要 |
