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以外とは?
[ 148] 「当事者以外は語るな」 - kmizusawaの日記
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060626/p2
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と言えるのは実は「当事者だけ」って気がする。当事者でない人間には「語るな」という権限はないよ。 当事者以外の人間に言えることは、当事者でない人は当事者を勝手に代弁するのはやめよう(もしくは「やめるべき」)ということかな。当事者でない人は当事者のように語ることはできない。 ただ、当事者でない人が勝手に代弁していてそっちのほうが当事者自身の声よりでかいという場合、あえて「当事者以外は当事者の経験について語るべきではない」と言う事はできると思う。 失礼します。非当事者(似たようなケースの当事者も含めて)が「当事者以外は語るな」と言うことも、勝手な代弁になるんですね……。自分がしていることの矛盾に、まったく気が付きませんでした。当事者の人間が「私以外は語るな」とはっきり言えることが一番いいと思います。ただそのためには、「私は当事者だ」と当事者自身が胸を張って言えるようにしなきゃいけませんよね。どうすればそういう状況になれるのだろう……と考えがストップしてしまいます。おそらくインターネットでも「私は当事者である」と言える人は本当にごく少数なのではないか、と思っていますから。 うーん… 一般論として,当事者以外が「○○について当事者以外は語るな」ということは,賛同はできないものの,矛盾はきたしていないのではないかと私は思います。というのは,「○○について当事者以外は語るな」という主張は,○○について語っているのではなく,「○○について語るべき主体」についての主張だと考えるからです(こう割り切れるか疑いがないわけではありませんが)。もちろん,「○○について当事者以外は語るな」という主張の根拠として,「○○は〜〜であるから,当事者以外に語る資格はない」という理由付けを持ち出すならば,それは○○について語っていますが。さて,それはそれとして…当事者以外が「○○について当事者以外は語るな」ということに私が賛同できない理由は,生の声というのは多くの場合にとても説得力を持つのですが,同時に,それに対する当事者以外の批判なども開かれているべきだと考えるからです。直接には当事者しか知りえないことではあっても,間接的には当事者以外も知りえるのであれば,それを知った当事者以外も語りえるはずです。また,おそらく,当事者を通じて知ることのなかった当事者以外も,それを推測したり,検討したりすることができるはずです。(ですから,同じ理由で,当事者が「○○について当事者以外は語るな」ということにも賛同できません。) わたしもここらは「そうじゃないかな」と思ったくらいで書いているので… いろんな見解があると思います。ただ、「当事者」というか「本人」以外(支援者とか親とかも含む)の人が、もちろん「善意」なんだろうけど「当事者にとっていちばんいいのはこういうことだ」とか「この人たちはこういう気持ちだ」とか勝手に言っちゃってるケースってありますよね。(特に暴力の被害とか社会的「弱者」に関わることでは) そういう現状の中では「当事者以外は当事者の経験(や気持ち)について語るべきではない」ということは当事者以外の人も気づいたら言わないといけないかなーとは思います。その経験を語るか語らないかってことも本人だけが決められることだけど、誰かが自分の体験や気持ちを語りたいと思ったときに語ることを阻むような要素をなくすことを心がけるのが、誰もが何かの「当事者」になりうる世の中では大事なことかなーと。そこらを考えると、もちろん「当事者」以外の人も「当事者」じゃないから見えるものもあるし、その観点からの意見って貴重なのも多いけど(特に第三者にとっては考える材料になる)、やっぱり一応の節度というか線引きは必要かなって気はします。>生の声というのは多くの場合にとても説得力を持つのですが,同時に,それに対する当事者以外の批判なども開かれているべきだと考えるからです。これは、どういう部分に対する批判かにもよりますね。例えば「当事者」が「当事者」として何か要求したとして、その要求が他の誰かを害するようなものだとか社会的に許されないとかいう場合もあるわけで、それは批判的に検討されていいと思うんですが、体験の中身やそれについてのその人自身の思いに関してあれこれ批評することは、言いたいことがあったとしても、とりあえず慎むべきかなと。そこは他人にはわからないことだし、黙るべきかなと思っています。(あと「こんな風に語るべき」とか頼まれてもいないのにアドバイスすることとか)でもこんなこと言いながら、新聞記事に登場する人の内面とか、いろいろと憶測してしまうので、あんまり説得力ないんですが…(汗) 応答,ありがとうございます(^^)私も,この問題については明確な意見を持っていません。当事者に何らかの意味で「近い」立場の人が「当事者はこう感じているんだから!」という強い主張を行うことは,自分の置かれている権力構造に無自覚に見えて,滑稽だったり,不快だったりすることも,たしかにあります。 はじめまして。もしも見当はずれだったり、過去にこうした話題があったのであればすみません。前後の文脈がわからないのですが、「当事者以外は語るな」というのは、「「当事者」を自分の主義主張を通すための道具にするな」ということなんじゃないかなと思いました。「当事者」の思いや経験を曲解して利用することはもちろんひどいことなのですが、善意や支援の立場であっても「なにかが違う」とその「当事者」に思わせるようなことはあるんだろうとは思うのです。ただ一方で、これを一般化してしまい「◯◯のことを語れるのは◯◯の当事者だけ」というふうに、語る「資格」を決め、絶対化してしまうとしたら、それはあかんやろうとも思います。「当事者」が語れるのは、あくまでも一個人としての経験や思いだけであって、それを不用意に一般化することは、まさに「他の当事者」のことを「非「他の当事者」」が語っていることになってしまうと思います。というより、もっとも「あかん」と思うのは、「◯◯が善か悪か(差別であるかどうか)」ということに対する判断は当事者にしかできないということにつながっていきかねないということなんです。ここからは「当事者」と「支援者」の風通しのいい水平な関係は生まれてこないと思うのです。「当事者」は自分の「語り」の限界をわきまえていないといけないと思うし、「非当事者」は不必要に当事者を一般化(絶対化)しないということが大切なんじゃないかなと思います。 はじめまして。私の考えている「当事者の語り」はおそらくitukiさんが考えているのとそんなに変わらないと思います。差別問題とか社会問題的なことについて話題にする自体は許されることだと思ってます。他人が勝手に代弁&判断してはいけないというかできないのは、その人の気持ちとかその人にとってのその体験の重要性とか、そういったことと考えています。むしろ善意や支援の立場でなされてしまうことが多いかなと。>「当事者」は自分の「語り」の限界をわきまえていないといけないと思うし、「非当事者」は不必要に当事者を一般化(絶対化)しないということが大切なんじゃないかなと思います。同意します。「当事者」の常時絶対化や無謬化の強要みたいなのは、それが当事者自身によるものであっても私も反対です。「当事者」そっちのけで話が過熱するのも違うし、「当事者」絶対化でそのことに触れる自体がタブーになっちゃうのもダメだと思ってます。(これって表裏一体のような気がします)てゆーか、気持ちとか自分に起きたことの自分にとっての重要度とか反省の有無とか、そういう内面的なことを他人にあれこれ言われたくないのは別に犯罪や差別などの「当事者」でなくても同様ですよね。そこらへんもっと考えてみたいと思っています。 |
