言う: サンプルムービー
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言うとは?

[ 18] 3.唯識と言う名の由来
[引用サイト]  http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki03.html

辞典で調べますと、唯は「ただ・・・だけ」、識は「対象を認識する心」と言うことですから、唯識という単語は「ただ対象を認識する心だけ」と現代語に直訳出来、「物は心を離れて存在するのではなく、物を認識する心があるから物があると思うだけだ」と言う意味と解釈出来ます。
哲学の世界に『唯心論(ゆいしんろん)』と『唯物論(ゆいぶつろん)』と言う主張がありますが、『唯識』は唯心論的な哲学だと申しても大きくは間違っていないと思います。即ち、『唯識』は、私達が目の当たりにしている総ての存在は、私達が認識しているから存在しているように見えるだけだと主張していると言ってもよいと思います。ただ、唯心論と違うところは、存在そのものを完全否定しているのではないと思われます。
『唯識のすすめ』と言う本の中で、その著者である岡野守也氏は『唯識は、確かに伝統的に唯心論的だったことは間違いないようなので、唯識はしばしば「唯心論」、或いは悪い意味での「観念論」と誤解される向きがありますけれども、私はそういうことではないと思っています。つまり、私達は色々な外側のものや他人や、すべて自分以外のものは、私の心とは関係無く存在しうるものと考えていますが、それでさえ「考えている」わけです。だから、私達の考えている心の働きと関わりの無いところで、物とか世界とか、あるとかないとかということは全く言えない。そういう事実にしっかりと目を向けていって、すべては私の心と関わりのあるもの、つながりのあるもの、そういう"縁起的なもの"だと見て、私と他人、私と世界というふうに、分離してばらばらに見る錯覚を正す、そのための一種の実践的な考え方の手続きだ、と私は捉えています』と述べられています。
このあたりの存在に関する捉え方は、唯識を理解する上でかなり重要であると思います。もっと言えば、私達が認識している存在や現象は一体何かと言うところが唯識を理解する重要ポイントだと思いますので、ここは、私達は素通りせずに追及すべきではないかと考えています。ここをまぁまぁと言うことで先に進みますと、結局は唯識の真髄に触れることは出来ないと思うからです。
デカルトと言う近代哲学の祖と呼ばれる人が、『我思う故に我あり』と言う有名な言葉を遺しておりますが、恐らく、存在とは何かと言う答えを求め求めて行き着いたところの言葉ではなかろうかと思いますが、あらゆる存在は、私が認識しているから、認識している全てが存在している。言い換えますと、わたしが認識出来ていないものは存在していない、と言うことであります。
私が死にますと、認識する私と言う存在が無くなり、全ての存在は認識されなくなりますから、全ての存在は無くなると言う論理です。しかし、そう聞かされましても、たとえば私の両親は既に亡くなっていますが、両親は亡くなっても、全ての物は存在し続けていますから、私が死んでも、やはり全ての物は存在し続けると考えるのが普通ではないでしょうか。ですから、唯識の考え方をなかなか納得出来ません。しかし、それは、私達の考え方が根本的に間違っている(錯覚している、真実を知らない)からだと唯識は説きます。ここが重要だと思われます。即ち、私達が生まれて成長する過程で、色々な科学的知識を身に付けて、それがあたかも宇宙の真実だと思い込んでいるところが問題だからであります。
宇宙の真実の一つは、私達が無くなるように、あらゆる存在も何れは無くなるからです。更に申しますと、無くなると言う考え方も間違いであり、形を変える、変化すると言う表現が正しいと言うのが唯識の説くところです。全ての存在は変化し続けているのですが、残念ながら人間には「死」というようなかなり著しい変化でなければ感じられない訳です。
日本の四季は分かりやすい変化の例だと思いますが、もう少し理解し易い変化としては、たとえば、水と言う存在があります。この水は、温度に随って、氷と言う固体にもなり、水蒸気と言う気体にもなります。川の水は、海水にもなり、雲にもなり、雨にもなり、氷河の氷にも変化致します。私達が死んだ後、全てのものが存在し続けることはあり得ない訳であり、私が今の一瞬認識出来ているものだけが、確実に存在していると言える、そう言う意味で、冒頭の「ただ対象を認識する心だけ」と言う唯識の考え方が少し理解出来るように思います。
水だけではなくて、短期聞では変化が認められないコンクリートや岩石も目には見えませんが、風化(化学的には酸化現象)が進んでいます。あらゆる存在は変化の速度は千差万別ですが、変化し続けている事は疑い様のない事実であり、真実だと思います。地球も46億年前に誕生したようですが、地球も後14億年で消滅すると言われております。宇宙にも寿命がある訳です。
考えて見ますと、私達人類は、今後も地球に存在すると考えておりますが、地球の歴史を紐解きますと、今、我が世ならぬ我が地球として好き勝手放題に地球を支配し謳歌している人類は精々数百万年の歴史しかありません、地球上に生まれた生命としては一番の新参者であります。それに引替え約2億3000万年前の三畳紀後期に現われ、恐竜の時代ともよばれるほどの大繁栄をくりひろげて6500万年前に絶滅した恐竜達の1億6千万年という支配期間は、想像を絶する長さであり、人類の支配期間とは比べるべくもありません。同じように、或いはもっと短命で人類は地球から駆逐される可能性もあります。
全ては変化し続ける事、これを仏教語では『無常』と言っておりますが、私達は説明を受けますと、頭では理解致しますが、直ぐに忘れて、現状に固執してしまいます。唯識は、この事実誤認、真実誤認からあらゆる『苦』が湧き起こっていると説き聞かせてくれ、そして、その考え方を根本的に是正する処方箋を与えてくれるものと思います。

 

[ 19] 「タオル」と言うか「てぬぐい」と言うか
[引用サイト]  http://www.arumon.com/osamu/tenugui1.html

「CD」と言うか「ドレ」と言うかだからイタリアでも言わないって。ドイツでは「ツェーデー」って言うらしいけど(本当)。
「デパート」と言うか「デバート」と言うか単に間違ってるだけなんだけど、年配の方には定着してるみたい。
「デート」と言うか「ランデブー」と言うか昔バイトしてた工場にブラジルから出稼ぎに来てた方は後者でした。
「プリンター」と言うか「印刷機」と言うか英語か日本語かの違いだけだけど、後者のほうがなんとなく偉そう。
「漢字Talk 7」と言うか「おにぎり」と言うか古くからのMacユーザーにしかわからない過去の汚点。
「イザヤ・ベンダサン」と言うか「山本七平」と言うか同一人物。外国人のフリをしなければ意見を語れない卑怯者。ポール・ボネも同じ。
「現代音楽」と言うか「コンテンポラリー・ミュージック」と言うかそろそろ「現代」ってのを定義し直したほうがいいと思う。
「前衛音楽」と言うか「アバンギャルド・ミュージック」と言うか概念的に死語(死ジャンル?)になりそうな気配がする。
「チャック」と言うか「ファスナー」と言うかカミさんは前者、私は後者だけど、どっちでもいいような気もするなぁ。
「誤植」と言うか「編集者のミス」と言うか当事者は前者と言い張るが、明らかに後者というケースも少なくない。
「おすわり」と言うか「エンコ」と言うかカミさんは後者なんだけど、私はそんな言葉は知らない。皆さん知ってます?
「ミッフィー」と言うか「うさこちゃん」と言うかキャラクターとしては前者だけど、絵本の主人公としては後者だなぁ。
「打楽器奏者」と言うか「太鼓叩き」と言うか私は後者ですね。でも自己紹介すると「ああ、お祭りとかの」って言われる。
「タクシー」と言うか「ハイヤー」と言うか60代のおば達が後者をよく使っています。takakoさん投稿Thanks!
「カバン」と言うか「バッグ」と言うか若い人は前者だそうです。そうかぁ。mikiさん投稿Thanks!
「ストーブ」と言うか「ヒーター」と言うかウチは前者ですね。石油だし。電気だったら後者かなぁ。megさん投稿Thanks!
「こたつ」と言うか「おこた」と言うかウチにはないですけど、気持ちは前者です。megさん投稿Thanks!
「衛星」と言うか「BS」と言うかウチは後者です。前者だと、なんとか博覧会を連想しちゃいます。megさん投稿Thanks!
「掃除機」と言うか「クリーナー」と言うかウチは前者です。そういえば電気屋では後者ですな。COCOさん投稿Thanks!
「鏡台」と言うか「ドレッサー」と言うか「ドレッサー?」と聞き返したのは私ですが、カミさんも前者です。
「PDA」と言うか「電子手帳」と言うか究極のPDAって、やっぱりケータイなのかな。私は持ってないけど。
「マイクロソフト」と言うか「微軟」と言うか中国ではホントに後者です。でもAppleは「林檎」じゃないです。
「レーコー」と言うか「アイスコーヒー」と言うか関西人は前者だそうな。私の田舎の名古屋もそうです。ひろんさん投稿Thanks!
「ベスト」と言うか「チョッキ」と言うか私は前者ですね。ところで後者って何語? ひろんさん投稿Thanks!

 

[ 20] 春眠と言うのか
[引用サイト]  http://plaza15.mbn.or.jp/~nyoshika/yota/nana2.htm

    真綿色したシクラメンほど清しい物は無い。と言う事で、本来私の日曜日は競馬と休息の為の24時間なのです。朝8時半に起き、9時半に場外馬券売り場に向けて出発、10時半頃に馬券を買い求め、11時半に何故か帰り道ではない五反田に行ってラーメンを食い・・・・・え?いや、五反田界隈に集中している風俗店に行くついでに、などと言う事ではありません。五反田西口から歩いて数分のところにある「小法師」と言う喜多方ラーメンの店に行くだけです。いやホント。などと強調すると、尚の事怪しまれるな。まぁいいや、それはさておきこの「小法師」はチェーン店なのですが、私は他の「小法師」が何処にあるか知らないのです。ラーメンを食いに態々五反田まで行くのは面倒ですので、東急田園都市線沿線の「小法師」情報をお持ちの方、お手数ですがメール下さい。と言う事で五反田でラーメンを食い、午後1時頃には帰宅。その後テレビで競馬中継を見ながら数ヶ所向けに色々と文章を書きます。競馬中継が終わればネット上のサークルで作っているゲームのBGM作曲に着手し、自分の趣味で行っている作曲に着手し・・・・などと書いていて思うが、実は趣味に費やす時間ばかりでまともに休息などしていないのでは無いか俺よ。まぁいいか、趣味に使う時間もリラグゼーションだ。と言う事で、私の日曜日は競馬と趣味の為の24時間なのです。
    出会いのときの君の様です。しかし、昨日4月12日の日曜日は、普段とは違う日曜日でありました。それは阪神競馬場でG1・桜花賞が行われると言う、精神面に違いを発生させる手の物ではありません。正月以来3ヶ月ぶりに姉夫婦宅へ遊びに行ったのです。それと言うのも、先だって小用があって姉夫婦宅に電話を入れた所、電話の向こう側が何か騒がしいのでありました。
おお、この愚物の顔を見たいと言うか。叔父は嬉しいぞ。とまぁそう言う経緯がありまして、昨日は普段の日曜日とは行動そのもののパターンを変えて、遊びに行ったのです。
    躊躇いがちに投げた言葉で俯いた様に振り向く君に。と言う事で、姪の心境を母親たる私の姉が大人の言葉に翻訳するところ、「叔父ちゃんは遊んでくれるから好き」なのだそうです。まぁ確かにななみの「お爺ちゃん」にあたる私の父では元気の有り余った3歳児の相手は体力的に大変なので、必然的に彼女の遊び相手としての矛先は私に向いてくるのでしょう。まぁ私にしてもその目的の殆どを姪の相手をするために姉夫婦宅に向かう訳なのですが。親しき仲にも礼儀ありとて、行きがけに茶菓子代わりにカステラなど買い求めます。このカステラに支払った1000円には、この後に控える時間を多少なりとも楽にできぬかと言う大人の姑息な計算が入っている事は言うまでもありません。しかし先方に到着するとななみはカステラには目もくれず一心に私と遊ぶことを考えている様でした。まず私という者は子供が苦手であり、事によると嫌いであると言った方が良いかも知れないのではありますが、やはり人の子、姪は可愛いのです。おまけに、こう慕われて悪い気はしません。ななみを持ち上げて「飛行機」やら何やらと、およそ私が子供の頃に父親にしてもらって楽しかった記憶のある事をしてやります。しかし、それは本来男の子向けの遊び方ではないのか俺よ。などと思いつつその後も私はお人形遊び、ままごと、室内用滑り台での遊びに付き合います。挙げ句の果てはゴジラの縫いぐるみを持って「あんぎゃー」などと叫びながら彼女を追いかけると言う遊びに付き合うのです。それにしても、このゴジラの縫いぐるみで「あんぎゃー」は受けが良かった。
    季節が頬を染めて過ぎて行きました。傍目に見れば30歳にならんかと言う大の大人がゴジラを持って「あんぎゃー」でも無さそうなものなのですが、これほど受けが良いのに悪い気がする筈もありません。私もついつい調子に乗って「あんぎゃーあんぎゃー」と室内を駆けずり回ります。時間にして小一時間程度でしょう。ななみの周囲の大人の中で体力的に最も優位に立つ私ではありますが、これでは流石に疲労してきます。何しろ私と言う者は悪い気はしないなどと言いながら、結構醒めた目で自分が今行っている事を見つめているのです。そう考えると先のななみとの遊びというのは、三十路に差し掛からんとする男のお人形遊びであり、30歳を目前に控えた男のままごとであり、いい歳ぶっこいたオヤジの「あんぎゃー」であり、とまぁ落ち着いて考える程に一種とんでもない様相を呈する行為に他ならないのです。体力的に疲労したのは無論の事、そういう状況を冷静に考えた私は通常なら赤面せんばかりの行為によって精神的に疲労してしまったのですよ。結局一連の遊びは彼女がトイレで用を足すと言う生理的欲求に因って一段落し、私は椅子に座って茶を飲む事にしました。しかし私は姪と遊ぶ事で、すっかり時間の経過というものを忘れていたのです。先に書いた通りこの日は今春の競馬G1戦線開幕の桜花賞当日だったのです。何たる事か、無情にも時間は既に15時50分、桜花賞はとっくに終わっています。私が一気に脱力したのは言うまでもありません。仕方無しに別室に置いてある2台目のテレビで結果だけを確認します。・・・・・・よりによって切った馬2頭で決まるとは。私が立ち直れない程のダメージを受けた事は言うまでも無いでしょう。
    疲れを知らない子供の様に。そう、しかし子供と言うものは本当に疲れを知らないんですよ。私が痛恨の一撃を食らって立ち直れない状況だと言うのに、姪は私にまとわりついてきます。子供が苦手なダメ人間とは言え、やはり私も人の子です。何度も書きますが、姪は可愛いのですよ。おまけに、これだけ慕われて悪い気がしよう筈もありません。そんな訳でその後も私はななみの折り紙遊びの相手をし、各種玩具で遊び、挙げ句の果ては馬になって彼女を背に乗せ室内を這い回ると言う仕儀になりました。しかしななみよ、叔父は馬で痛い目を見たばかりなのだよ、おまけに「ぶひひーん、ひひーん」などと叫ぶのは30歳を目前に控えた男には実に勇気の要る事なのだよ、などと言った所で分別の付く歳では無し。結局もう小一時間、私はななみの相手をして参りました。まぁ彼女の喜ぶ顔を見られるのは至福とは言え、義兄の「月曜日には会社に行きたくなくなる」と言う言葉に殊更に重みを感じる次第ではあります。事実私も、その夜21時過ぎに不意に意識が飛んでしまい、結局翌朝まで10時間の長きに渡って睡魔に支配される事となったのでした。今私は思います。愛する姪よ、「シクラメンのかほり」の歌を地で行くのにはまだ季節が早いのだ。何しろシクラメンは秋の花、今はまだ春なのだ。おまけにシクラメンと言えば花言葉が「内気な心」だと言う事も一部の間では常識なのだぞ。いや、花言葉はどうでも良いのだが。それに、地で行くと言いながら歌の前半部分はまるで話に無関係だしな。

 

[ 21] 校則と言う規則
[引用サイト]  http://plaza15.mbn.or.jp/~nyoshika/yota/yota127.htm

    学校というものに通ったと言うことに於いて、私も例外ではない。今から思うに、高校までの学校と言う機関は、何も学問を主とする場所では無かったのではあるまいか。少なくとも高校生当時の私は学問よりも対人関係や己の思考などを哲学し洗練して来たものだ。などと言うと聞こえは良いが、要するに友人と馬鹿な事をしたり、一人で馬鹿な事を考えていたりしただけなのだが。ともあれ、少年少女は学校で社会の何たるかを学んで世に出るのだ。そして世間の何たるかの中には、当然社会のルール体系も含まれねばならない。社会のルールを知らぬ人間が大挙して社会に流入して来たら、世の中の秩序などは一瞬で崩壊してしまうことだろう。そう言う理由で、少年少女には正しい認識を与えねばならぬ。そのためには、学校毎の良識に従う校則が作成されねばならない。
    しかし、校則全てを是とする訳にも行くまい。世の中には間違った校則も数多く存在するのだ。例えば、幼稚園での規則だって規制能力を備えている以上は校則の類であろう。さて、とある幼稚園では一年を通して半袖・半ズボンと言う服装を強要している。幼稚園関係者は「子供の体力と環境に対する適応力や抵抗力を増強するため」などともっともらしい事を言っているが、騙されてはいけない。ともすれば、その幼稚園で幼少期を送った少年少女たちは季節感を喪失した人間に成長してしまうかも知れぬのだ。季節の文物を教えれば良いと言う向きもあろうが、大体今の世の中で季節の文物がどれほど生きているかと言う事自体が疑わしい。やはりこれは拙いだろう。
    いや、この程度ならまだ良いかも知れぬ。事に因ると一年を通して上半身裸で過ごす幼稚園もあるぐらいだ。良いか読者諸兄。裸だぞ、裸。如何に幼児とは言え、それは拙いのではあるまいか。例えば私が自分の幼少時を思い出しても、幼稚園に通いはじめる頃にはしっかり性的な興奮を覚える機能は備わっていたと記憶している。直接的な表現で何ではあるが、幼児であっても陰茎ぐらい硬くなるのである。そして幼児にとって興奮すべき対象は大人の女では無く、同年代である隣のミヨちゃんの裸である。上半身裸の幼稚園は常にお医者さんごっこを継続しているのと同じでは無いのだろうか。そう言う経験を積んだ少年が成長すれば、いきおい幼少の砌を思い出してロリータコンプレックスに走らぬと言う保障は無い。やはり拙かろう。
    いやいや、ロリコン程度で慌てふためく事もあるまい。もっと大変なのは「世の中では服を着なければならない」と言う暗黙のルールが頭から欠落した人間を創ってしまうかも知れぬ、と言う危険性だ。そう言うルールが欠落した少女たちは長じて後、髪振り乱して走り、乳振り乱して往来するのだ。更に言えば、ええとその何だ、自主規制。つ、つまりだな、考えるほどに嬉しい世の中ではないか。ああっ、そうではなく、恐ろしい世の中では無いか。馬鹿馬鹿しいと思うなかれ。現に今の世の中、「キャミソール」だか「カニミソ売り」だかと言う訳の解らぬ下着姿で街を往来する者共が実在するではないか。あれは見えそうで見えない所がそそるのだが、反面、欲求不満になってしまう。ああっ、だからそう言う事ではなくてだな、いやんいやん。
    何か、果たして私が校則について云々できるのか自信が無くなってきたのだが、書き始めてしまったので後には退けない。そんな訳で幼稚園児に教育を施すための規則でさえこれだけ難しいのだ、中学生や高校生に至ってはもっと難しい筈である。規則は社会のルールである故に、曲がった事を規則としてはならぬ。しかるに最近の校則には「スカートの丈は膝下何センチ」などと言う人格形成に全く関係の無い物が多い。嘆かわしい限りである。まあ私とて世の中の規範からは逸脱した人間である故、人格形成にはどのような規則を設けるべきかと言う事は提言出来ない。しかし明らかにおかしいものを指摘するぐらいはできる。
    そう言う事で、今までこの目で見、この耳で聞いて来た数ある中でも、最も極端な例を挙げてみよう。
某掲示板で書かれていた「高校の校則」であるが、校内では王様禁止なのだそうだ。これはちょっと凄い事になっている。何が凄いって、一体何が言いたいのかさっぱり解らない所にトドメを刺すだろう。そうすると当然、女王様も校内では禁止なのだろう。ムチとロウソクを所持している事がバレたら停学、仮面やボンデージ衣装まで持っていれば退学なのか。王子様も禁止だ。妙な提灯ブルマとタイツを履いていれば停学、校内を白馬に乗って爆走すれば退学になる。白馬が教師の二〜三人も蹴殺せば形式的には完璧だろうな。そして王子様が禁止なら、お姫様だって禁止の筈だ。授業中に眠り続けて起きず王子様の接吻で目を覚ますなどしたら停学、夜中の12時に校内でガラスの靴を落とし、更に鼠と南瓜と老婆を散乱させて帰ると退学になるのだ。そしてお姫様が禁止なら、やはり校内での姫始めも禁止なのだろう。あ、これは当然なのだがな。
    ところで今思い出してみるに、私は校則というものに規制されたと言う記憶が無い。元来が寝ぼけた人間なので規制されている事に気づいていないだけだったのかも知れぬが。しかし、考えてみれば高校生当時は本当に校則らしい校則が無かったのだ。私の通っていた高校は生徒会の自治と生徒による自主規制を基本としており、教師はほぼ完全に口出しをしないと言う、極めて珍しい学校だった。とは言え、そんな学校にも一応の決め事はある。入学した頃のホームルームで担任の先生が言うのだった。
「バイク通学は禁止。学校の前の『井の頭通り』は交通量が多いからな。事故をおこすのは勝手だけど、禁止しておかないと、君らが事故を起こした時に教師の責任にされちゃうからな。それはたまらんのだよ。」
「それから、校舎内では必ず上履きを履くこと。一応掃除の時間は取ってあるけどねえ。でも、どうせ君ら掃除なんかしないんだからさ。せめて綺麗に使おう。」

 

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